聴講生の夏🙏法然の思想について🙏期末レポート🙏
毎日暑いですね(-_-;)
日本神話に始まった授業も今週、めでたく終了しました。90分X15回(約4ケ月)の授業を皆勤でした。我ながら頑張った( ◠‿◠ )
来週は期末テスト週間だけど、わが科目は期末レポート提出で試験なし、へとへとになりながら仕上げたレポートを期限ぎりぎりに提出、間に合った!!
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法然(1133~1212年)は鎌倉新仏教のひとつ、浄土宗の開祖と言われているが、はじめて浄土教を理解したのは聖徳太子だとされている。
浄土教を説く経典に「無量寿経(むりょうじゅきょう)」「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」と「阿弥陀経(あみだきょう)」がある《浄土三部経》。
聖徳太子の手に成る「維摩経義疏(ゆいまきょうぎしょ)」に「無量寿経」が引用されている。
日本人は、まず「無量寿経」によって浄土信仰を学んだと考えられる。
浄土真宗の七高僧を年代順にあげると、浄土教の歴史をたどることになる。
その七人の高僧とは、
- 龍 樹(りゅうじゅ)(インド)
- 世 親(せしん)(インド)
- 曇 鸞(どんらん)(中国)
- 道 綽(どうしゃく)(中国)
- 善 導(ぜんどう)(中国)
- 源 信(げんしん)
- 法 然(ほうねん) である。
その著書「往生要集」は地獄と極楽について述べ、特に地獄に関しては詳しい描写をしている。地獄と極楽、という思想を日本に植え付けたのが源信であったといえる。
平安貴族たちは堕地獄を恐れるからこそ浄土教に帰依したといえる。
そのために権力と金にあかしてこの世に浄土を現出することを試み、華麗な伽藍の寺院を建立、名高い仏師に仏像を刻ませて極楽往生を願った。
法成寺(ほうじょうじ)の阿弥陀堂や、宇治・平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂)から当時の貴族が憧れてやまなかった極楽浄土を偲ぶことができる。
こうして一握りの貴族は、この世に極楽を具現して来世(らいせ)の往生を信じようとしたが、ほとんどの庶民はこの世の苦しみからも、あの世での往生からも見捨てられた存在だった。国家仏教は彼らに救いの手をさしのべてはくれなかった。
浄土教が一般に普及したのは、鎌倉時代初期に活躍した法然によるといえる。法然は、浄土教を南無阿弥陀仏という念仏の形で広めた。
法然の主張の中心は「念仏だけで救われる」というものである。
万人が救われる仏教を模索した法然は、阿弥陀仏の大慈悲にすがって救われるためには「南無阿弥陀仏」と念仏するだけでいいという教えを説いた。念仏だけでよいとのことから、法然の教えを「専修(せんじゅ)念仏」という。法然こそ浄土教を日本化した第一の人物であるといえる。
法然の思想を理解するために、空也(平安中期)、源信(平安末期)について簡単に触れてみる。
空也(903~972年)は平安中期の僧で、諸国を遍歴しながら「南無阿弥陀仏」と唱える口称(こうしょう)念仏を庶民の間に広めた。
「阿弥陀聖」「市聖」と呼ばれ、空也流の念仏勧進聖は鎌倉仏教の浄土信仰を醸成したとされている。口から念仏が飛び出している空也像がある京都・六波羅蜜寺(旧:西光寺)が有名だが、六波羅蜜寺は現在、真言宗智山派のお寺になっている。天台宗(浄土教)空也派ともいわれる空也のゆかりのお寺が他宗派のお寺になってしまったことは謎である。
「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀仏に帰依します、の意味で、「すべてを仏の計らいに任せます」という他力の思想である。これは死者の追善(ついぜん)儀礼や農耕儀礼とも結びついて念仏が広く定着していく基盤になった。アミダの語源だが、アマン(母)神が「アーメン」となり派生的にアミダとなった説もある。
次に源信(942~1017年)について簡単に述べる。
源信は既に述べたように浄土真宗の七高僧の第六祖であり、平安時代後半の天台宗の僧である。
平安末期は、末法思想と社会状況の乱れが蔓延し、人々は現世に強い失望感を抱いていた。そして、死後の幸福(極楽)に救いを求めざるを得なかった。
浄土教が求められた背景である。
浄土教は、浄土に往生するため心に仏の姿を思い浮かべる「観想(かんそう)念仏」が勧められた。
① この世は穢(けが)れた世だと厭(いと)わしく思う
⬇️
② だから極楽浄土へ往生することを願う
⬇️
③ 現 実:煩悩で穢(けが)れた凡夫の住む世界
⬇️⬆️
浄 土:仏が住む清浄な国土
そして、いよいよ法然について述べていきます。
法然は浄土宗の開祖である。
今まで述べたように、浄土教は、聖徳太子に始まり、空也→源信と展開され「浄土宗」となった。
浄土教と浄土宗は何が違うのか?このレポートで追及したい。
同じ念仏・極楽浄土を目指すも、庶民の手の届くようにしたのが、法然の浄土宗で、浄土教は一部の特権階級用のものだった。
法然の思想は以下の四つに大別できる。
- 他力本願・・・阿弥陀仏が衆生を救って浄土に往生させるという本願を心から信じる
- 専修念仏・・・ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱える
- 容易な行によって誰でも往生できるとして従来の奈良仏教を否定→従来の仏教界から非難を受けて法然は流罪となった。
- 末法の世なので、自力修行によってこの世で悟りを開くことは困難。よって、悟りよりも救いを重視。「死後に浄土で悟りを得よう。」
承安(じょうあん)五年(1175年)は、法然が回心(えしん=自力の心を捨てて念仏の教えを信じること)を遂げた年である。
法然は遂に専修念仏の教えを確立したのである。
法然の教えは従来の仏教から見放されていた庶民すべてを救済の対象とした。
善人だけでなく「愚痴無知(ぐちむち)の尼入道(あまにどう)」から「魚食(うおぐい)法師・破戒尼(はかいに)」までが例外なく救いとられた。親鸞のことばとして有名な「悪人正機(あくにんしょうき)説」を法然はすでに語っている。
「弥陀の本願」は極悪人のためにこそあるというのだ。
従来の仏教は、功徳を積まなければ往生できないことを教えの基幹とした。
さらに法然は苦行・荒行もきっぱり否定して「ただ口に南無阿弥陀仏と唱えて、声につきて決定(けつじょう)往生おもひをなすべし」と易行(いぎょう)を主張したのである。これならば庶民に支持されるはずである。
弥陀三尊について
浄土宗寺院の本堂の正面真中におまつりされている仏さまが阿弥陀如来(仏)、向って右が観音菩薩、左が勢至菩薩です。
菩薩とは、もともとは仏になるために修行する人のことを言いましたが、観音菩薩や勢至菩薩の場合は阿弥陀仏の分身として、その働きを助ける者という考えです。
阿弥陀さまは、どのような人でも区別なくお救い下さいますが、阿弥陀さまが、慈悲として働かれる時には観音菩薩をつかわし、智慧として働かれる時は勢至菩薩をつかわされます。
参考資料