まほろば

神社仏閣巡り、季節の花、食べ歩きなど、日々の暮らしをゆる〜く綴ります。最近、古墳・お城・城跡にも関心があります。

明後日(4月25日)「古事記・日本書紀」の小テストがあります。邪馬台国や卑弥呼が古事記・日本書紀では登場しない、これは何故だろう・・?

 シニア大学の授業がほぼ「ゼミ」のみになったので、前から念願だった「聴講生」になりました。受講科目は、まずは小手調べで「日本思想史」(歴史地理学科)

4月から7月の4ケ月間で15コマ(1コマ=90分の授業)受講します。

 聴講生は、1科目10名程度、「日本思想史」は人気科目で、競争率3倍、つまり、30名応募、20名は落選という狭き門でしたが、何とか滑り込むことができました。

 さて、ガイダンスが終わり、1回目の授業がありました。この科目は、毎回小テストがあるシラバス(授業計画書)に書いてありました。にも拘らず人気科目というのは何故かな?1回目の授業=日本神話の思想:半分くらいは難しくてついていけてないけど、半分くらいは何んとか分かる・・だんだん面白くなる予感がしています。

古事記日本書紀

古事と日本書を併せて「記紀」と言います。

古事記推古天皇(6世紀)の統治した時代までの神話重視で物語性が強い日本最古の歴史書です。一方、日本書記は持統天皇(41代)までのことが書かれた国外向けの正史で、漢文表記になっています。

 邪馬台国卑弥呼

 古事記日本書紀を調べていて不思議に思ったことがあります。

歴史で普通に習う邪馬台国卑弥呼古事記日本書紀では登場しない、これは何故だろう・・?

日本書紀の編纂者たちは編纂の過程で「魏志倭人伝」を精査したであろうが、ある事情で卑弥呼を登場させず、その代わり神功皇后(AD201-269)を登場させている。

邪馬台国はどこにあったか?

邪馬台国の場所は「魏志倭人伝」によると、

(前略)不弥国、南、投馬国に至る水行二十日、(中略)邪馬台国に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月 とあります。

つまり

不弥国➡(南、水行二十日)➡投馬国(南、水行十日、陸行一月)➡邪馬台国

不弥国は九州北東部にあったことは間違いなさそうなので、この記述通りだと、さしずめ豊後水道を南下し、九州の南方遥か彼方に邪馬台国はあったことになる。

どうも二度出てくる「南」という方角が「東」の間違いのようである。

瀬戸内海ルートが一般的に考えられるが、古代船だと潮流や渦潮などの関係で瀬戸内海の航海は無理で、東流する対馬海流を使えば沿岸を容易に東に移動可能である。

この前提により、投馬国とは出雲の辺りであり、それからさらに水行十日というのは、丹後あたりである。ここで上陸し陸路を1ケ月かけて到着したのが、邪馬台国(ヤマトの国・奈良県)という説に大いに納得しました。

出書:「出雲と大和」村井康彦著、岩波新書

 

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