まほろば

神社仏閣巡り、季節の花、食べ歩きなど、日々の暮らしをゆる〜く綴ります。最近、古墳・お城・城跡にも関心があります。

「天台教学」について

 CAACを卒業、今ごろ学ぶことの楽しさを見出している今日この頃です。

考えてみると、人生その他に疑問を感じる暇もないくらい必死に生きてきたので、余暇を手にして今まで疑問だったことの、その解をを学んでいる・・・そんな感じです。

その一つが仏教です。

 今まで京都・奈良にご縁をいただきながら、お寺とが神社が好きではありませんでした。そして大切なものを無くして初めてお寺とが神社が身近になりました。

 第二の人生では、四国八十八か所お遍路を始め、いろんなお寺と神社にお参りしました。頭では分かっていましたが、「生かされている」と痛感したことが多いです。

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最澄伝教大師)と天台宗について
 天台宗を開いたのは、最澄伝教大師)です。
最澄伝教大師)は若くして比叡山に籠り、修行生活に入ります。そのうちに法華経に基づいた天台教学こそが真理であるとの確信を持ちます。
その後、奈良仏教を嫌い、京都に遷都した桓武天皇と和気(わけの)広(ひろ)世(よ)の庇護を受け、奈良の学僧を相手に法華経を講義したりしますが、本格的に天台教学を請来(しょうらい)したいと思い遣唐使船に乗り唐へ向かいます。


 最澄伝教大師)は約1年の滞在の後、帰国します。天台教学を期待されて持ってきたはずだったのですが、意外にも評価されたのは、ついでに請来(しょうらい)した密教のほうでした。
 翌年、天台宗を正式に開宗しますが、与えられた枠は天台教学1名、密教学1名でした。(当時の僧侶は、国家によって枠が決められた定員しかなれませんでした。)

 したがって、天台宗は中国の天台とは異なり、法華経密教の融合した形という独特のものになりました。天台宗は、総合大学にも例えられ、禅(禅定)・円(天台)・密(密教)・戒(戒律)ともいいます。それに対して天台宗から派生した鎌倉新仏教は、その一部を発展させた専門大学ともいえるかもしれません。
天台宗の特徴としては一乗(いちじょう)の成仏(すべての人は救われる)を唱えたことが、まずあげられます。

 これは、当時の奈良仏教に対して革新的な考え方でした。そのために、最澄伝教大師)は徳一(とくいつ)菩薩(ぼさつ)という法相宗(ほっそうしゅう)を代表する高僧と合計9つの書物をお互いに著して激しい論争を展開しました。
当時、僧侶になるためには二百五十の戒律を受けなければなりませんでした。奈良仏教の諸派の僧侶は当然のこと、その後に成立した真言宗もこの戒律を授かることが僧侶になる条件でした。


 ところが、最澄伝教大師)はこれに異を唱えます。
インドで仏教は、大きく部派仏教(小乗仏教)と大乗仏教に分かれました。部派仏教(小乗仏教)は「個人が自らの救済を求める」のに対して、大乗仏教は「他者の救済を重視する」といえます。日本に現在残っている仏教諸派はすべて大乗仏教の影響を受けています。当時でも部派仏教(小乗仏教)は 大乗仏教への仏教哲学の基礎として学ばれていたにすぎません。
ところが、二百五十戒は部派仏教(小乗仏教)に基づく戒であり、大乗仏教の戒とは異なります。それゆえ、最澄伝教大師)は「大乗仏教の僧侶は大乗戒を授かるべき」と考え、大乗仏教戒壇(かいだん)(戒を授かる場所)を作ろうと考えました。

 当時、戒壇を管理していた奈良仏教の諸派との軋轢(あつれき)を生みます。最澄伝教大師)は大乗(だいじょう)戒壇(かいだん)を見ることなく、その生涯を閉じました。
一方、真言宗は二百五十戒に加えて密教戒を別に授かることで、その問題を解決します。
 天台宗最澄伝教大師)の死後、悲願の大乗(だいじょう)戒壇(かいだん)を設立します。そして、開宗以来のウィークポイントであった密教ですが、唐に送り込んだ円仁(えんにん)・円珍(えんちん)の両大師が請来(しょうらい)することによって解決します。 さらに浄土思想も取り入れ、ますます発展していきました。

 

円仁(えんにん)(天台宗 三代目)の道程

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 しかし、本来の天台教学は密教・浄土などを包括する教えではありません。それを日本独特の曖昧さでうまく取り入れたように思われたのですが、抱え込んだ矛盾が臨界点を超える時が来ます。

 それが、末法の時代といわれた鎌倉時代です。高度な教学と修行体系を持った天台宗は、天変地変に苦しむ庶民に対して有効な手段を持ちえませんでした。むしろ単純な教義と容易(たやす)い修行方法が待ち望まれました。
浄土教団がまず天台宗から離脱し、禅宗も袂を別ちます。


 日蓮上人は多様な教えを抱え込んだ天台宗に対し法華経の本義を説き、親鸞上人は戒を捨て阿弥陀如来に対する確信を重要視し、道元禅師はただ、座禅する形に仏を見出して独自の世界を作り上げていきました。日々の生活に苦しんでいた当時の庶民にそれらの教えは広く受け入れられていきました。
しかしながら日本仏教のほとんどを生み出した天台宗は、現代においても十二年籠山(ろうざん)行(ぎょう)・千日(せんにち)回(かい)峰(ほう)行(ぎょう)などで今なお注目を集める存在です。
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 智証(ちしょう)大師(だいし) 円珍(えんちん)について記述します。
貞観年間(859~877)になって、智証大師(ちしょうだいし)、円珍(えんちん)が、 園城寺を天台別院として中興されてからは、東大寺興福寺延暦寺と共に「本朝四箇(しか)大寺(たいじ)」の一つに数えられ、 南都北嶺の一翼を担ってきました。


 円珍の死後、円珍門流と慈覚大師 円仁門流の対立が激化し、 正暦四年(993)、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入ります。 この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されました。
その後、両派の対立や源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の法難に遭遇しましたが、 智証大師への信仰に支えられた人々によって支えられ、その教法は今日に伝えられています。


 三井寺園城寺(おんじょうじ):天台宗寺門派 総本山)は、昨年、西国観音巡礼でお参りしました。三井寺は西国三十三観音巡礼の14番札所です。とにかく大きなお寺で、山一つがお寺という感じでした。


 観音堂はお山のてっぺん近くにあります。途中に「釈迦堂」「弥勒菩薩像」「十一面観音立像」があり、いろんなご朱印がもらえます。また、観音堂の帰りには「薬師如来」をご本尊とする「水観寺」 なんてあったりしました。
なんでこんなに色んなご本尊があるのか?不思議に思いながらの観音詣ででしたが、天台宗のデパート化の片輪であったと少し理解することができました。

 

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